Being Nagasaki~ 日本バプテスト連盟 長崎バプテスト教会 ~                           English / Korean / Chinese

Being nagasaki

はじめての方へ

Gospel

ハングル講座

平和活動

長崎キリスト教協議会

rink

「戦前、戦中、戦後と私」 川上 平三

 昭和十五年八月二十七日、私は青山学院のチャペルに居りました。長崎の宅より電報が「女児安産」を知らして参りました。帰崎した後、「みどり」と命名しました。トムソン氏が「何故みどりと名づけたか」と問われたので「『平和』を意味するからです」と答えた事を覚えています。男児であったら「平和」と命名したでしょう。と云うのは学生時代の友人に「平和」と云う人が居り、その人の父上がギリシャ正教会の神父で「平三」という方で日清戦争の終った時に生まれたのでかく命名せられたと聞いたことがありますが、私の場合は、これから大きい戦争が開始せられようとして居た時です。

 何故、このようなことをはじめに書き出したかと申しますと、幼い時から軍人志望でなかったのです。少年時代を五師団のあった広島ですごし乍ら軍人を好まない少年であったのです。だんだん成長するに及び賀川豊彦氏や杉山元治郎氏らの影響を受けたりして、兵隊嫌いで反戦的になったと思います。

 しかし、その私が戦争中何をしたか、町内会長になって町内の人々に国債を割当てたり貯蓄の奨励をしたり、防空演習を強制したりいろいろと迷惑をかけたのです。一方では、特高や憲兵にいつも監視されて卑劣な自分であった事を反省しています。鎮西学院中学校(今の活水女子中高)

 どうしても敗戦だと思い乍ら周囲の人々は必ず勝つと云う人が多い中でやりきれない気持ちで日々を送っている時、教会員の浦川秀雄兄が阪神地方から二十年八月七日に帰崎せられ、八日に会った時、広島の被爆状況をきゝました。誰もが予想もしなかった原爆それがその翌日長崎に投下せられたのです。私は鎮西学院の(今の活水高校)防衛主任をしていたので、空襲警報発令中は学院の玄関にラジオをきゝ乍ら低学年の生徒と一緒に待期していました。

 昭和二十年八月九日もその様にしていましたら、多分午前十時三十分すぎに空襲警報から警戒警報に変ったので今の間に昼食をすまそうと二回職員室に帰って来て、数人の先生方と食卓を囲みお互に戦争のことを語ったり、私は浦川兄よりきいた広島の惨状を話している時に原爆がおとされたのです。私は校舎のどこかに直撃弾の大きいのを受けたと思い、食卓の下に身をかゞめてしばらくして辺りを見ましたがほこりでさだかでなく数名いた職員は独りも見えず、私も階段を降りて運動場から四方、特に自宅の方向即ち松山町、浜口町辺りを見ましたがその時は建物は凡て火の海となって居りました。裏の竹之久保町は家屋が倒壊して居るようでした。其処でもう一度職員室に昇りいつも持って居りましたカバンを探しました。眼鏡がこわれましたし、カバンの中にはスペア-のメガネやその他肌身はなさずに持って居た書類、印かんなどが入っていたのです。幸いなことに吹き飛ばされていましたが見つかりましたので、鉄かぶとを頭にのせてさてこれからどうしたのものか先づ自宅の方へと思いましたが裏山に出て行くより途がないので校舎の裏に出て畑を横ぎって商業の前の途に出たところで頭にホータイをされた西条院長にお会いしました。

 「君、町の方は大変だ、とても行けないよ」と云われたのです。院長はその日長崎駅に動員せられている生徒の事で行かれたことゝ思います。しかし、私はどうしても自宅の方へと大橋の方へ向いましたが、人家の焼跡で畳の焼灰の中に足を突込んで熱くて進むことが出来ないので、思い直して何処か安全な処はと考えた末、とに角鉄道線路をつたって行ける処まで行こうと考えて道の尾駅までたどりつきました。時間もわかりませんが夕方に近かった事と思います。其処には十数名の人々が居ました。私も屋外のベンチに休んで居りましたら、「先生、やられたのですか」と少年が言いました。見ると姓名はわかりませんが多分一年生であったのでしょう。そこで水を要求しますと鉄かぶとに一ぱいの水を持ってきてくれましたのでそれを飲んで、駅の構内にある水の出る処へ案内して貰い洗顔して頭に軽い出血のあるのを知りました。その生徒とは其処で別れましたが、姓名を聞くゆとりもなかったことを今でも回想して残念に思っております。

 そのうち炊き出しのおにぎりを婦人会の人が一つゞつ配って下さいましたがその時はもう夏の夜に入っていました。 その晩は人気のある部落には誰も居ません。皆どこかの防空壕に入った後らしく、近くで一軒の家が焼けて居ました。その近くの軒先きにむしろがあったので横になりましたが夜中蚊にせめられた上、時々機銃掃射の音がきこえましたので安眠どころではありません。その上妻子のことが駄目とは思い乍らも万一にも助かっているか、などゝ考えると実に不安な一夜でありました。

 空が少しづゝ明るくなって参りましたので、とに角松山町まで行くことにして道の尾から市内に入りました。上空には米軍の飛行機がたえず旋回しておりますのでとても不安でしたが、ようやく松山町に来てみますと凡てが焼けて家族の遺体も見つかりません。その時、竹槍を持った陸軍軍曹が一人立っておりました。多分予備役の人と思いますが、「どうなる事でしょう」などゝ言っておりました。しばらく話していますと同じ隣組の山田様が来まして「自分達の防空壕があるから其処へ行きましょう。私も一人ポッチになりました」と云われたので、不思議に残って居た門の柱に、

 「ナオミよ三組ごうち(多分今の三川町と思います)の○○氏宅に来て山田様の壕を教えて貰えよ」と書き残しました。○○氏と云うのも今だに思い出せないのです。ナオミは活水の生徒で学徒動員で今の日本銀行支店のある処に図書館がありそこが何か軍の仕事をしていて、そこに配置せられて居たのです。その夕、兵士に見守られて西山水源地の上まで来たそうですがとても行けないというので、又後帰りして翌日夕方私の居る壕までたどりつき無事であった事をよろこんだのです。

 八月十日より十七日まで穴居生活をしましたがその間十五日頃、飽の浦で同じ隣組だった別府の植木職で石田様と云う徴用されて三菱造船所に働いていた人の夫人に大橋附近で偶然に出会い「どうしておられるかと案じていた、今どこですか」と問われ、しかじかと話しました処、自分の家に是非来いといわれましたので、言葉にあまえて飽の浦二丁目の同家に、十七日夕方雷雨のはげしいなかを、娘と二人で参り三十一日迄お世話になりました。そして八月三十一日浦川秀雄兄のお世話で伊良林町一丁目に九月一日より移住する事になったのであります。

 その後、何日目かはっきり覚えておりませんがだんだんと体の調子が悪くなり、遂に立つ事がむつかしくなりましたが、長男がすでに軍を除隊して帰っておりましたのでその支えで新興善小学校にあった医療班?まで行き、其処で偶然溝口兄にお会いしました。薬局長として居られた事と思います。お薬を貰って帰りました。しかし、後日、吉見牧師が「君はもう駄目だと思った」と語ってくれた事を思う時余程弱っていた事と思います。私自身も矢張り、死を覚悟していたらしく、手帳に子供にかきのこしたものがあります。まだ次男が軍隊から帰っていない事もあって、今後の事を簡単に書いています。今日、私が読んでもわかりにくい様な字ですから矢張り余程弱っていたのでしょう。西中町天主堂(現在のカトリック中町教会)

 何日くらい病床していたかもわからないのですが、当時の事で思い出す事は、トムソン宣教師が綜合ビタミンを可成多く送って下さったのが誰かを通してか、又は御本人が御来宅下さったか全々記憶がないのです。当時のメモを見ますと、
九月五日 平井兄来宅
  八日 平松牧師、青山牧師来宅
  九日 平松兄来宅
  十日 平松兄 〃
 十一日 吉見 豊氏、平松兄、吉見牧師来宅
 十三日 理郎除隊帰宅
 十四日 吉見牧師米二升、ブドウ酒一本
 十六日 西条院長、平松牧師来宅
 十九日 平松兄、西条院長より米三升下さる
二十三日 病後初めて外出

 その後と思いますが、カーブ先生が来訪せられました。そして障子もない外からまる見えの宅に、今晩泊めてほしいといわれるのでせんべいぶとんに泊まって下さった。先生は多分活水で私のことをきかれての事と思いますが、私とは神戸時代先生のヘルパーとして兵庫教会より独立して兵南教会を作り、先生が大正十二年休暇のため帰米せられるまで四年間一緒にはたらいたのです。別に破れ家でなく他にお泊りになる処があるのに一泊せられたことは、私に励ましとよろこびとを与えて下さいました。今でも感謝しております。その後陸軍中佐の姿でサーベルをつけて来られた宣教師の方がありましたが、私は感心しませんでした。

 穴居生活の間に松山町の旧宅の焼跡に家族の遺骨をさがしに行きましたが手のつけようもなく、飽の浦に移ってからも心身ともに疲れきった自分をむちうって、とぼとぼと二度程行きましたが見つかりませんでした。処がお世話になって居る前記の石田様が、

 「どうしても奥様とお嬢さんの遺骨をさがして来る」と言って私とナオミを連れて出かけられて焼瓦をめくり除いてその下より白骨と化した遺骨を見出して下さったことを有難く思いました。その石田様も徴用が解かれ、だまって別府に帰られましたが音信もなく私としては今でも甚だ心残りになっております。

 昭和二十年二月鎮西学院を退職しました、新しい時代になってそれに順応することのむつかしさを感じました。健康も思わしくなく、気分の転換をはかりたく結成直後の社会党に入り、三菱造船、全逓、国鉄などの組合の青年部の諸君に推されて、社会民主青年同盟の委員長に就任したり、原水禁の結成準備委員、ユネスコ、世界連邦などの支部結成に参与いたしましたが、それにも失望しました。自分の栄達とか売名とか又は政治運動の基盤作りのために利用する人々が余りに多く見受けられました。しかし、純粋に、真面目に進んで居られる方々も多いのです。青年同盟の会員の中には今日では中年に達し、県会議員になったり、労組の中心となって活動して居る人々もあるし、地道なかくれた奉仕をして居られる方々もあり、それを見ます時にただただ敬意を払うものであります。

 頁を読みかえして、ずいぶんくだらないような事を書いたと思いますが、さてしからばお前は、戦前、戦中、戦後といろいろのことを見、聞き、行なって来て何を感じ、何を反省して居るか、と問われることになると思いますが、私は被爆して鎮西学院の校庭でパンツだけで泣き乍ら助けを叫んでいた少年たちを、又、家屋が倒れてその下で救いを求めている者を、又は焼けたゞれて姉に知らしてくれと言った若者たちの願いなど、その一つ一つに何一つ応じ答えなかった自ら被爆者であり、且つそれに応じる能力が無かったとしても、人と神を愛する事、奉仕することを説いて来た者として誠に恥しい有言不実行の輩の一人として、真に申訳なく思い今も心の痛みとして残って居ります。言い訳はいくらでもあるとしても、自らのからだの状態が如何にあるとしても赦されてよいものであろうかと、これはおそらく私のこの世にある限り自らの心の痛みであると思います。

 そして、私は先輩、友人、同信の兄弟姉妹に励まされ、物心両面より授けを受けて今日にいたりました。信仰のない方々にも多大の恩恵を受けました。戦争中のある日、(応召して戦死せられた)住職が、「川上様カトリックの神父があなたを飽の浦から追い出すと言って居られましたよ」と言われました。何の理由か知りません。その頃は多分戦前の事であったのでしょう。幼稚園は小学校とよい関係にあり山口姉にきけばわかる事でしょうが、評判もよく志望者の全員を入園させる事が出来ない状態ではなかったのでしょう。今井三郎氏などの講演会は盛況であり或いは、教会の集会等も寂しいものではなかったと思います。けれども、神父が住職に語ったという事が事実とするなれば意外でした。

 戦中、戦後を通じてかゝる非常時に於て人間の内側にある美点と醜態、真の愛と、自らにのみ忠実なエゴイズム、それらを自らの中に又は人の中に見て、天国と地獄が其処にあるように今でも思って居ります。

 自己保存のための言動、時局への迎合主義、日本の総ての人々にあったでしょう時局に便乗する人の弱さ、それは教会にも個人にも多分にありました。それは戦中、国家主義の先頭に立って居た者が戦後社会主義者と称して極左的政治活動をして居る者、時にそれらを批判したくなりますけれども、反省する時に自らの内に無いと言いきれないものがあるのを思い、悲しい事と思って居ります。

 しかし、今、老境に入り自ら何を為す事も出来ず、存在の奉仕も出来ない私ではありますが、戦争反対、原水爆の行使反対、凡ゆる暴力を否定したい念願で一杯です。

 最後に私のような者の為に御配慮をいたゞいた、先輩、同信、同労者の方々に対して紙面をかりて深謝いたしたいと思います。

(元飽の浦教会牧師)

 

 ◆次のページ「原爆の想い出(吉見豊)」

〒850-0003
長崎市片淵1-1-4
Tel: 095-826-6935
Fax: 095-826-6965
牧師: チョ ウンミン
事務スタッフ: 荒木真美子      竹内洋美
音楽主事: 嘉手苅夏希
ゴスペル音楽ディレクター:
     中村百合子

第一礼拝:毎週日曜日9:00am

第二礼拝:毎週日曜日11:02am

賛美集会
毎月第三土曜日 3:00pm

English Service (英語集会)
Sunday 5:00pm

祈祷会:毎週水曜日7:30pm

その他の集会につきましては
教会までお問い合わせ下さい